曲について
テレビ東京系ドラマ「生きるとか死ぬとか父親とか」のEDである、ヒグチアイさんの『縁(ゆかり)』。
シンプルで優しいメロディに、温かく包み込むようなヒグチアイさんの歌声に聞き惚れ、毎日聴いています。
タイアップドラマについて
「生きるとか死ぬとか父親とか」は、ラジオパーソナリティでエッセイストのトキコ(吉田羊)が、自由奔放で身勝手な父(國村隼)に振り回されながら父を題材にしたエッセイを書く、というストーリーです。
トキコの母(富田靖子)はトキコが若いうちに亡くなっているのですが、生前はトキコの父のビジネスや借金にだいぶ苦労を強いられたようです。
トキコと父のやり取りを通して、結婚や出産、街並みや美容など、現代の”変わりつつある価値観”が描かれているとことも興味深く、毎週見入ってしまいます。
「結婚願望がないのはおかしい?」
「結婚しなくていいから不倫相手と一緒にいたい」
「子どもが欲しいのに旦那が理解してくれない」
「髪のハゲや肌のシミを男性が気にするのは変?」
いろんな人の悩みやモヤモヤを通して、いろんな生き方を味わえるドラマです。
ここからは、毎週欠かさずドラマを見ている私が、ED『縁』の歌詞考察をしていきます。
歌詞を考察
なぜ「寂しい」のか
自由気ままで 自分勝手で
『縁』作詞:ヒグチアイ
わたしを置いてくあなたが
歩幅合わせて歩くようになった
それが寂しい
ドラマに照らし合わせると、「わたし」がトキコ、「あなた」が父です。
とにかくマイペースで、「わたし」のことなんて考えていないように見えた「あなた」。
そんな「あなた」が年齢を重ねて「わたし」に寄り添うようになってくれた。
それ自体は良い事のように見えるのですが、なぜ「わたし」は寂しいのか。
歩幅を合わせるようになったのは、年を取って動きがゆっくりしてきたという意味もあるのかもしれません。
この後の歌詞でも出てきますが、年を重ねれば性格も丸くなるといいます。
つまり逆に言えば、『歩幅合わせて歩く』というのが「あなた」の老いを感じてしまい、『寂しい』と言っているのかもしれませんね。
何を「諦める」のか
素直になれないわたしたちは
『縁』作詞:ヒグチアイ
諦めることを覚えた
このまま向かい合わずに
隣で同じ景色見ようよ
向かい合わずに同じ方向を見るトキコと父。
EDの映像はまさにこの部分の歌詞が表現されていますね!
歌詞はとても抽象的ですが、「わたしたち」がどんな関係だったのかが伝わってきます。
『素直になれない』、つまり感情をまっすぐ伝えられなかったり、優しくしたいのについツンツンしてしまったり、そんな関係だったのでしょう。
『諦める』とは何を諦めるのでしょう。
そのあとに『このまま向かい合わずに』とあるので「向かい合うことを諦める」ということですね。
つまり、お互い向き合って話をしたり、お互いのことを思いやるのは、素直じゃない「わたしたち」には向いてなかったってことですね。
そして向き合わない代わりに、『同じ景色見ようよ』。
つまり、同じ方向を見て、同じ思い出を共有しようということですね。
”諦める”というと突き放したような感じがします。
しかし実際のところは「ぶつかりながらも一緒にいよう」というような温かいメッセージなんですね。
”諦める”という言葉からも、「わたし」の素直じゃない性格が見える気がします。
「親子」という単純で複雑な関係
あなたがいたから
『縁』作詞:ヒグチアイ
わたしがいるのよ
わたしがいたから
あなたがいるのよ
それだけは混じりっけない
事実 事実だから
親が違う人だったら、「わたし」は生まれてきていません。
また「わたし」を育てることで、「あなた」は「”わたし”の親」になっています。
どんなにぶつかっても、どんなに恨んでも憎んでも、「親子」という形は変わらぬ事実なのです。
その事実を肯定的に受け取れない人もいるかもしれません。
でも結局、自分を生んだ父と母は世界に一人ずつしかいないんですよね。
ドラマで印象的だったセリフで
結婚生活のコツは、大好きだった記憶を忘れないようにすること
というようなものがありますが、親子もきっとそうなんじゃないですかね。
小っちゃかった「わたし」の記憶があるから嫌いになれない「あなた」。
楽しかった休日の思い出があるから憎みきれない「わたし」。
好きとか嫌いとかそんな単純なものではなく、複雑な感情が混じり合った関係。
それでいて、「子は親から生まれた」というただそれだけの単純な関係。
シンプルなサビですが、「親子」という単純かつ複雑な関係に、思わず考えさせられてしまいました。
「削りカス」とは
ここから2番の歌詞です。
年重ねれば 丸くもなるさ
『縁』作詞:ヒグチアイ
それもしあわせの形ね
だから削りカスを集めてまた
棘を作っていく
「性格が丸くなる」のは良い事ですよね。人によってはそれが『しあわせの形』です。
でも「性格が変わる」というのは、やっぱりちょっと寂しい。
『削りカス』というのは、丸くなるまでに削れていった「あなた」の一部。
つまり、「あなた」の変わった部分です。
ここでは、変わってしまった「あなた」の尖っていた頃を思い出している場面だと解釈しました。
親子って特に、変わっていくことへの抵抗が大きい気がします。
友人や恋人と違って「血縁」という強いつながりがあるようで、逆に言えば一番見放されたくない相手でもあります。
たとえその「変化」が良い事だとしても、手放しで喜べずに『削りカスを集めて』しまうのも親子ならではの感情です。
「わたし」の素直な気持ち
雲が翳って雷が
『縁』作詞:ヒグチアイ
落ちるまでがあなたでしょう
優しくなんかならないで
隣で憎ませてほしいよ
この部分が、「わたし」の想いが一番素直にぶつけられているように思えます。
『雲が翳(かげ)って』きたというのは、「あなた」の機嫌が悪くなるなどの怒りの予兆でしょう。
『雷が落ちる』はよく「怒る」の比喩で使われますね。
怒りっぽい「あなた」、それを憎む「わたし」。
ずっとそんな関係で居たから、そんな関係性が変わってしまうことに言葉に出来ないような不安があるのでしょう。
でも『隣で』という一言があるだけで、やはり単純に「憎しみ」という言葉で片付けられない”親子”の関係性が見えてきます。
「互いのために離れる」ということ
あなたといたくても
『縁』作詞:ヒグチアイ
わたしは変わらない
わたしといたくても
あなたは変われない
あなたといたいから
わたしは離れた
いつまでも背中ごしの景色
見ていたいよ
このままでは、「わたし」と「あなた」は一緒にいられないようです。
それはさっきの1番の歌詞であったように『素直になれないわたしたち』だからです。
お互いを思いやることはできないために、一緒にいるとどちらかが傷ついたり我慢したり、嫌いになってしまうからですね。
または、仕事やお金の理由もあるかもしれません。
そして「わたし」は「あなた」と一緒にいるために性格や生き方を変えるつもりはないし、「あなた」が変わらないことはずっと見てきたから知っている。
大人になって思うのですが、必ずしも親子だからって近くにいた方がいいとは限らないんですよね。
ずっと一緒にいるとどっちかが機嫌悪かったり、感謝を感じられなかったり。
『わたしは離れた』の部分は少し切なく聴こえてしまいますが、長い目で見ればベストな選択なのだと思います。
『背中越しの景色見ていたいよ』は1番冒頭で出てきた『わたしを置いてくあなた』でいてほしい、つまり優しくない、変わらぬあなたでいてほしいということですね。
タイトル『縁』について
『縁(ゆかり)』という言葉には、「なんらかのつながり」というザックリとした意味合いと、「血のつながり」という限定的な意味合いがあります。
おそらく「わたし」は「あなた」に対してポジティブな感情をあまり抱いていないのでしょう。
でも、紛れもなく「血のつながり」があることは事実なんですよね。
嫌いにならないために離れるけど、つながりがなくなるわけではない。
そんな不思議で複雑な「親子」という関係が描かれたこの楽曲は、まさに「縁(ゆかり)」というタイトルがぴったりな気がします。