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【歌詞考察】BUMPの「アカシア」の歌詞がいつにも増して”刺さる”理由を考察してみた

BUMPの歌詞は心に沁みるものが多い。

しかし、アカシアは他のどの楽曲とも違う感覚で「刺さる」。

なぜこんなにも歌詞が刺さるのか、「抽象度の高さ」「共感ではない歌詞」という観点からアカシアの歌詞について考察した。

「アカシア」の歌詞ではなく「GOTCHA!」の考察をした記事はこちら

抽象度がいつにも増して高い

今までのBUMPの歌詞

BUMPの曲は抽象的な言葉が多用されていて、同じ境遇になった人、なった時にしか理解しづらい楽曲が多い。

近年は特に抽象度が高くなっている気もする。

ただ、今までは抽象度の高い歌詞の中にも、具体性を持たせていた。

『記念撮影』は、抽象的で比喩的な表現がたゆたう中で、「固まって待ったシャッター」「一本のコーラ」と言った具体的な思い出が出てくる。

『話がしたいよ』では、冒頭とラストに具体的な「自分」の様子が描かれる。

会話調の歌詞ではあるが、具体的な出来事はバスを待っていることと、ガムをぺってすることしか実は描かれてはいない。

実は「アカシア」には具体的な話がない

『アカシア』はこれらとは違い、ずっと具体的な話が出てこないのだ。

「冷たい雨に〜」の部分はあくまで例えで、実際の出来事ではない。

「理由」も「ゴール」も「あの輝き」も、抽象的な言葉はすべて、完全に聴き手の理解に委ねられているのである。

抽象度の高さでいうと、最近のBUMPだと『新世界』に似ている。

『新世界』は君のことが大好きな僕が描かれているが、「はずれクジ」も「天気予報」も例えとして出てくるのみで、具体的な「君」と「僕」のストーリーは出てきていないのだ。

これはわざと抽象的な言葉を並べているとしか思えない。

抽象度の高い言葉の作用

…別に「いじわるしている」と言いたいわけではない。

あえて具体性を持たせずに、「理由」「ゴール」というような曖昧さを持たせることで、聴き手はストーリーの肉付けを勝手に、無意識に行うのだ。

「理由」とだけ書かれていたら

「理由ってなんだろう」

「そもそも何の理由だろう」

と考える。

すると答えは結局、聴き手の経験や見聞きしたことのある話から形成される。

つまりあえて抽象的な歌詞にすることで、聴き手が勝手に「自分だけのストーリー」を作って聴いてしまう、いわば

「誰でも簡単!ストーリーキット」

となっているのだ。

フローチャートのように抽象的な言葉を並べ、聴き手が勝手に想像する。すると聴き手それぞれの想像上の「アカシアストーリー」が出来上がる。

ポケモン的に言えば、まさに「みんなの物語」だ。

ポケモンとのコラボの効果

何がすごいって、それをポケモンというコンテンツとのコラボでやってしまうのがすごい。

コラボだから、聴き手は当然「ポケモン」の要素を探してしまう

ポケモンが好きな人はまんまと、自分とポケモンの思い出を重ねて素敵なストーリーを思い浮かべて、アカシアという楽曲を解釈する。

「昔の旅パを思い出すなぁ」

「なつき進化を彷彿とさせるなぁ」

「アニポケのサトシとピカチュウみたいだ」

などなど。

一方、ポケモンを知らない人が聴いたって、

「ポケモンを知らないから曲が理解できない」

ということには決してならない。

やはりこれも抽象度が高いから、自分なりにストーリーを想像して、各々オリジナルの「アカシアストーリー」を作って聴いてしまうのだろう。

雑誌「小学一年生」かなんかに、番号の書かれた点を結んでいくと何かの絵になる、というページがあったことを記憶している。

アカシアの歌詞は、まさにそんなイメージだ。

共感”できない”からいい

共感とは程遠いストーリー

歌詞に対する評価として、しばしば「共感」という言葉が使われる。

だがアカシアはどうにも、「共感」という言葉が似合う曲ではない気がしてしまう。

現代、多くの人は毎日決まった場所で眠り、決まった場所で学んだり働いたりする。

ポケモンの世界のように、他の生き物と冒険している人はめったにいない。

しかし『アカシア』はどちらかというと、後者の雰囲気を醸し出している。

つまり、我々の生活からは到底「共感」しえないようなストーリーなのだ。

多くの人の「憧れ」

『アカシア』の歌詞は、フレーズの一つ一つが、多くの人の「憧れ」だ。

ひとことで言えば、旅の仲間。

「旅」と「仲間」をテーマにした作品は多く、昔から人々を魅了してきた。

有名なのがワンピースだろう。

ワンピースは共感できるような作品ではない。

我々は旅もしてなければ戦ってもいない。

ましてや海賊ではない。

それでも、麦わらの一味をはじめとした「仲間」という関係に人々は憧れを抱く。

『アカシア』という曲も、「共感」というよりはワンピースを観ているような感動を与えているのだと私は考察している。

理想的、幻想的な仲間

「君」と「僕」は同じ「ゴール」に向かっているが、現実に存在する「ビジネスパートナー」や「部活仲間」などよりもカジュアルな仲だ。

言えないことは聞かない仲間。

怖くてもふざけ合える仲間。

離れない手を繋いだ仲間。

『アカシア』の歌詞で描かれているのは、我々にとっては幻想にさえ聴こえてしまうような、「理想の仲間」なのだ。

共感できないからこその「コラボ」の作用

しかしこんな美しすぎて共感なんてめったにされないような歌詞が受け入れられたのは、これも「ポケモンとのコラボ」という名目があったからかもしれない。

聴き手は「あくまでポケモンとのコラボ曲」という前提で聴くから、理想論のような歌詞も素直な憧れとして受け入れてしまうのではないだろうか。

『友達の唄』との比較

そういえばこの感覚は、映画ドラえもんのタイアップ曲『友達の唄』を聴いた時にも似ている。

切ない友情が描かれた歌詞は、単なる「理想論」として片付けられてしまいそうなくらい美しすぎる。

それが、タイアップという事実があるだけで「まぁドラえもんの曲だし」と聴き手は素直に受け入れる。

ただ『友達の唄』は割と具体的なストーリーが描かれていた反面、現実味が強くて共感はしやすかった。

実際私も、なかなか会えていない友人を思い浮かべたりしていた。

一方『アカシア』は、自分の経験に当てはめて想像しようにも、少し現実味に欠ける

映画を観ているような感動

現実味が薄く、共感しづらい「理想論」のような歌詞…

いじわるな言い方をすれば、『アカシア』はそんな歌だ。

それでもBUMPファンに留まらず、多くの人に感動を与えている。

ステキな関係だな。

こんな仲間がいたらいいな。

映画を観ているように聴き手は自分の共感の域を越えて「君」と「僕」の関係に感動してしまう

先ほど述べたような「抽象的なフレーズ」のおかげで想像の余地ができ、ストーリーは聴き手の脳内で出来上がっている。

そう、聴き手の中ではまさに「映画」なのだ。

「歌に共感した」ではなく「解釈したストーリーに憧れ、感動した」が、『アカシア』の感想として正しい表現なのかもしれない。

まとめ+おまけのBUMP考察

『アカシア』の抽象的な表現によって聴き手はストーリーを解釈し、そのストーリーに憧れ感動する。

「わかる!」ではなく、ため息が出るほどに「いいなぁ」と思える美しい憧れが、この曲が名曲たるゆえん。

というのが私の考察だ。

よく考えてみると、もともとBUMPはたくさんの感動的なストーリーを生み出していたではないか。

人気曲『K』では絵描きと黒猫の美しい関係性に、『リボン』ではBUMP自身の温かい関係性に、聴き手は憧れをいだき感動をもらっていた。

そう考えると『アカシア』は、BUMPの歌詞として「通常営業」かもしれない。

ただ、『アカシア』は『K』のような表現上のフィクション性が強くなく、『リボン』のように特定の人物の歌詞ではないことから、一見聴き手自身の物語のように思えてしまう。

そういった意味で、歌詞に斬新さを覚えたのも、間違ってはいないのだろう。

『アカシア』の爆発的な人気には少し動揺を覚えたが、昔からのBUMPらしさに少しの新しさを加えた歌詞という、まぁなんともBUMPらしい歌詞である、という風に私の中では落ち着いたのだった。

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