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【歌詞考察】紫 今『魔性の女A』の違和感とルッキズムの皮肉

最近Tiktokをはじめとするショート動画でよく聞く『魔性の女A』という楽曲。

歌詞にけっこう違和感を抱いたんですよね…

だって今の時代って「ルッキズムは良くない」「私は私の一番であればいい」みたいな風潮で、そういう曲も多いじゃないですか。

そんな時代にずっと容姿を褒めたたえる歌詞があちらこちらで流れるなんて…(小並感)

気になったので考察してみました!

『少女A』のオマージュ?

『少女A』との共通点

『魔性の女A』というタイトルから真っ先に思い浮かぶのが、中森明菜氏の『少女A』という楽曲。

『上目遣い』というフレーズの共通点と、妖艶に異性を誘う女性の描写が似てますよね。

【魔性の女A】

魔性の女 フェイスラインがマドンナ
上目遣いがたまんないや
君の虜 愛してる

作詞:紫 今

【少女A】

上目使いに 盗んで見ている
蒼いあなたの 視線がまぶしいわ

作詞:売野雅勇

そもそも「A」というのは「モブA」「犯罪グループの男A」みたいに、不特定な複数のうちの一人を指す言葉で、『少女A』『魔性の女A』の以下のフレーズに通じます。

特別じゃない どこにもいるわ
ワ・タ・シ 少女A

作詞:売野雅勇

人々の欲望の中で
何度でも生き返る 姿変えて

作詞:紫 今

大人びていて妖艶だが、内面は年相応にあどけない「どこにでもいる」少女A。

時代によって美醜の基準は異なるが、「どの国・時代にもいる」魔性の女A。

別に私は特別なんかじゃない、という卑屈さにも似た小さな叫びが聞こえてきそうな、そんな共通点があります。

『少女A』と異なる点

ただ、内容は真逆と言っていいほど違います。

『少女A』が男性を誘惑しつつも17歳という年齢相応の戸惑いを見せている女性であるのに対し、『魔性の女A』はとにかく容姿を肯定される大人の女性という印象を抱きました。

また、『少女A』が少女の内面にフォーカスしている歌詞であるのに対し、『魔性の女A』は女性の容姿に言及する描写が大半です。

【少女A】

他人(ひと)が言うほど ドライじゃないの
本当は臆病 分かってほしいのあなた……

作詞:売野雅勇

【魔性の女A】

頭脳明晰ガリレオも
美の天才ダヴィンチも
抗えない耽美な引力
獣か妖か、人じゃないほどに美しい

作詞:紫 今

違和感の正体

褒め方の違和感

『魔性の女A』という楽曲の歌詞に抱いた違和感。

単に容姿を褒めたたえる歌詞ならいくらでもありますが、「最近ショート動画で流行る曲」にしては不可変な部分を押し出しているなと感じました。

「フェイスライン」「上目遣い(低身長)」が繰り返されてますが、これって努力でどうにかできない部分ですよね。

「努力で可愛くなる」「私の一番かわいい私になる」が好ましいとされる現代で、そんな生まれ持ったものを押し出されちゃってええんか?

…と、サビのみ公開されていた時には思っていました。

美への肯定に否定的?

基本的に一人称が不定で「世間の声」「惚れた男」「憧れる女」どれとも捉えられますが、一人称が(おそらく)魔性の女Aさんに切り替わる部分があります。

どうぞご勝手に
偶像?愛憎?
お好きなように崇拝しな なあ
ゴシップショーに商品消費
お買い上げどうも
すぐ飽きてまた戻る
逃れられない美の魔力

作詞:紫 今

単に「私美しいでしょ?」という純粋な自己愛というより、その美を肯定させることに否定的な印象を抱きます。

(サビだけが公開されたときと比べて、かなり印象が変わったのがこのフレーズでした)

「ゴシップショー」は有名人のゴシップ、特に「落ち目」だの「オーラがなくなった」だのという下品なネットニュースを彷彿とさせます。

「商品消費」は一時的な流行としての美を求めて買っちゃう消費者、そしてそこに付け込んで流行を生み出す生産者。

どちらも結局、正しい姿ではないと叫ばれても人々が無意識に渇望するからこそ生産されるものです。

悲しいね

ルッキズムの皮肉

多様性社会なんて言われて、ルッキズムも問題視されつつある現代。

しかし多様性の象徴でもあるようなSNS、いわばどんな立場の人でも意見を述べる機会が与えられる場が、ルッキズムを加速させている。

こんなにルッキズムが問題視されている時代に、物価高と若者の貧困が話題になるにも関わらず、かつてないほど美容整形が一般化している。

この『魔性の女A』という楽曲も、そんなルッキズムの皮肉に通ずるものを感じました。

「ルッキズムだなんだゴチャゴチャ言っても、結局(その時代の美の基準における)超美しい人がチヤホヤされるんだよなぁ~」

って言われているような。(個人の感想です)(魔性の女Aさんはそんなこと言ってません)

「美」と「愛」

愛=品がない?

『魔性の女A』の歌詞には「愛」という言葉が複数登場します。

君の虜 愛してる

作詞:紫 今

「浮世はそう、わちきのもん。
愛だなんだの品がねえのう」

作詞:紫 今

宿儺様みたいなこと言いますね。

サビの「愛してる」という純粋(に見える)感情に対し、冒頭では「品がない」と一蹴。

魔性の女Aさん(ここでは魔性とされる容姿が美しい女性全般)にとっちゃ、その「愛してる」が自分の生まれ持った容姿への評価であることが多かったのかな、と感じました。

裏を返せば、誰も自分の精神性や努力なんて見ていない。
もし事故やケガでその容姿が崩れたら自分の評価なんて簡単に崩れる。

そんな足場のおぼつかない「愛」ってことです。

どれだけ「俺はお前の中身を愛しているんだ!」と言われようと、信じる材料なんてないし。

…魔性の女Aさんにしたら、「美」を土台にした愛なんてそりゃ品がないと言い捨てるのも分かります。

容姿で使い捨てられる女性

…余談ですが、個人的に思い出すのがとある女性誌の「困り眉はもう古い!」というキャッチフレーズ。

その雑誌では数カ月前に困り眉のアイドルを特集し、困り眉をヨイショしてたんですよ。

で、それが古いと。

それって結局、特集されたアイドルの方の否定にもなりますよね。

我々は無意識的に、すごく残酷に「容姿」のみで人を(特に女性を)使い捨てていることを考えさせられました。

多様性の中の画一的な美

こちらのフレーズにもある通り、時代や国によって、美の基準も違います。

人々の欲望の中で
何度でも生き返る 姿変えて

作詞:紫 今

多様性というならば様々な美があっていいはず。

なのに「多様性の時代」に生きる我々ですら、黒髪を染め、まぶたを二重にし、中顔面を短縮し、鼻を高く見せ、涙袋を創出し、痩せ型を目指し、脱毛サロンに通い、まつ毛を長くし、歯列矯正をし、歯を白く染め上げ、小顔や足長を羨む。

「垢ぬけ」という一見自分の中のベストを目指す方針も、結果的にやることや目指すものは似たり寄ったりですよね。

それが良いとか悪いとかではなく、「多様性の時代」という言葉に対して皮肉的であるとは思います。

結局はそのとき・その国の美しさの基準を、押し付けられているような、求めてしまうような、それが人間なのだなぁ。

この楽曲の流行すらあらゆる皮肉をはらんでいる

サビが評価される皮肉

先に謝っておきます。すみません。

実はサビだけが流行していたとき、この曲の歌詞が嫌いでした。

「あ~はいはい、流行る感じのね?可愛い子に躍らせる感じのね?分かりやすいワードを置いて元から美しい子しか許されない動画にしていく感じね????容姿に恵まれた子をもっと引き立たせる容姿資本主義ソングね???」と思っちゃってました。

そんな私の気持ちとは裏腹に、評価されていく楽曲、想定通り踊る美女。

…でも歌詞の全貌が明かされて、それすら皮肉になってませんかね?

「顔めっちゃ良い女(意訳)」な歌詞の一部が賞賛されて、フタを開けたらその品位を問われるんですから。

ヒドイヨー!

むしろサビを素直に嫌いになれて良かったとすら思ってしまいました。

歌詞なんて聞いてないのでは

ちゃんと歌詞を聞くタイプの人は、私のような感想を抱いたと思います。

嫌いとはいかなくとも、なんかちょっと肯定しづらいな的な。

そんな歌詞でも、良い感じのジャジーなメロディで、かわいらしくも妖艶なウィスパーボイスが聞こえれば「良い曲」認定されてしまう。

容姿うんぬん以前に、楽曲としても
「ほらお前らルッキズムだの多様性だの言ってもこういう歌詞好きだろうが」
という皮肉を感じました。(個人の感想です)(紫 今氏はそんなこと言ってません)

(曲に関しては詳しくないので小さく書きますが、メロディも古今東西の「お前らこういうの好きだろ」が詰まってる感じがします。だって好きだもん

内面っていうかキャバ嬢じゃん

一応『魔性の女A』にも内面性が描かれている部分はありまして。

魔性の女 ときに天真爛漫
あどけなくって 儚くって

作詞:紫 今

いやそれキャバ嬢じゃんんんんん

(平成オタクの咆哮)

あるいはガルバやコンカフェの女、サークラやオタサーの姫、会いに行けるアイドル、P活、ラウンジ嬢。

「見た目じゃなくて中身が好きなんだよ」という「愛」を語ってみても、結局おまいら「天真爛漫さ」「あどけなさ」「儚さ」という「求められるモテ女像」に沼ってるだけじゃねぇかと。

『愛だなんだの品がねえのう』ってこういうことなのでは…

と、ほんの一部描かれる内面性から考えてしまいました。

(最近木嶋佳苗やいただき女子りりちゃんについての書籍や情報を追っていたのもあり、この「求められるモテ女像」がいかに男を狂わせる=魔性であるか、容易に想像がついてしまいます)

他の流行曲と比べてみるの巻

他の楽曲と比べるの絶対許さないマンはここでブラウザバック推奨です。

『可愛くてごめん』

『魔性の女A』を聴いて安直に思い出すのが、同じくショート動画中心に流行した『可愛くてごめん』という楽曲。(これめっちゃ好き)

重い厚底ブーツ
お気に入りのリュックで
崩せない前髪 くしでといて

作詞:shito

自分の味方は自分でありたい
一番大切にしてあげたい
理不尽な我慢はさせたくない

作詞:shito

『魔性の女A』が容姿、主に「フェイスライン」という不可変な要素を挙げていたのに対し、『可愛くてごめん』は自分が選んだ物や内面性を全肯定しています。

とても表面的な時代の好ましさに合致していますね(皮肉な言い方ですが、私は本当に好きです)。

とはいえこの2曲は対立構造にあるわけではない気がします。

「こう(内面主義)あるべきなのに結局こう(容姿主義)だよな」を表現したのが『魔性の女A』な印象です。

『美人』

これまた安直に、美について描かれた楽曲と言えば!な、ちゃんみな氏の『美人』を思い浮かべました。(これも超好き~)

本物を君は知ってるかい?
知識と経験のエロス
まだ使いもんになってるかい?
女は皆正気じゃない

作詞:ちゃんみな

『美人』の歌詞の背景をザックリ説明すると…

容姿についてひどい誹謗中傷を受け、メンタルを病み痩せこけたちゃんみな氏に届いたのは「痩せて綺麗になった」という言葉。
その皮肉と、画一化され無茶を要求される「女性の美」というものに鋭く切り込んだのが、この『美人』という曲の歌詞です。(めちゃザックリですが)

両方知っている方はおそらく、『魔性の女A』と『美人』の問題視している軸の部分が似ていることに気づきます。

大きく括ればルッキズムと、それに伴ってもはや無意識レベルで画一された美を渇望してしまう女性。

…ただ、まじでこれは個人の感覚なのですが、『美人』は女性への、『魔性の女A』は男性への恨み節の側面もあるように感じました。

『美人』:美の基準を過剰に上げて他人を評価する女への恨み

『魔性の女A』:無自覚に美や魔性性を女に求める男への蔑み

もちろん着地は「恨み」ではないものの、なんというか、根底の作詞モチベとでも言いましょうか、そういうものが『美人』と『魔性の女A』の大きな違いに感じます。

『神っぽいな』

内容はぜんぜん違えど、「この曲が流行ってしまうこと自体が皮肉」という点で、ピノキオピーさんの『神っぽいな』っぽいなと思いました。

『神っぽいな』はザックリとすら説明するのが難しいので、ぜひ過去の考察をご覧ください。

総括

この曲が『少女A』のオマージュであるという仮説のもと考えると、『少女A』が分かってほしいような悟られたくないような心中を語る歌詞であるのに対し、『魔性の女A』はそんな心中も透明化されてしまう現代の過激なルッキズムや女像が逆説的に表現されている、と私は考えました。

表現方法としては『可愛くてごめん』のような「私はこれでいくから外野は黙ってろ(意訳)」な感じや『美人』の「過剰な容姿評価はおかしい、これを聴いてるあなたから終わりにしなさい(意訳)」な感じと比較するとかなり婉曲です。

おそらくですが、ルッキズムが「容姿評価の押し付け」であるとして、『魔性の女A』は「ルッキズムの否定の押し付け」を避けた表現なのかなと感じました。

問題視はしているけど、それを「正しさ」として押し付けては結局容姿評価を押し付ける人間と同じですからね。。

…というのは考察厨の考えすぎで、サビだけ先に公開したところから考えても、「おしゃれ表現」なのだとは思います(冷静)。

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