シン・エヴァンゲリオンとは何だったのかの考察【ネタバレ有】

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Qまでのシンジ(ネタバレなし)

新劇場版ヱヴァンゲリヲン「破」で図らずもニアサードインパクト(通称ニアサー)を起こし、「Q」で自分の犯した過ちの大きさに気付き失望したシンジ。

レイを救うために結果的にニアサーという悲劇が起きたにも関わらずレイすらも救ていなかったという事実と、それをやり直すために起こした自身の行動で友人カヲルを亡くしたという出来事から絶望に堕とされる。

そんな絶望に言葉も出なくなり放心状態となったシンジを引きずるアスカと、シンジが落としたS-DATを拾ったレイ一行が、「リリンの近づけるところまで」歩いて行くところでQは終わる。

次回!シン・エヴァンゲリオン!さぁてこの次もぉ~!サービスサービスゥ!

シンエヴァでのシンジ(ここからネタバレ)

ここからネタバレを含みますし、真面目にやります(^p^)

繰り返しになるが、シンジはレイを救うために起こした行動でニアサーを起こし、多くの命と人々の生活を奪った。そして、レイのこともカヲルのことも救えなかった。

だがヒカリのセリフ*から、シンジが起こしたニアサーという悲劇により生まれた愛の形もあったことを、我々視聴者は強く印象付けられた。

(*ニアサーきっかけでトウジと仲良くなって付き合ったのよ的なシーンがあった)

この「悲劇から生まれたもの」という視点から考察を広げていくと、悲劇のトリガーとなったシンジが「救ったもの」がいくつか見えてくる。

シンジが救ったもの

差別や格差のない世界

まず、「第三村」。

後のゲンドウのセリフから、人類補完計画の結果として「差別や格差のない世界」を肯定的に捉えていることが分かる。ゲンドウもシンジも図らずとも、「第三村」という形でこれを叶えている。

皆が等しく貧しく、支え合い、「挨拶も労働も知らない、ぴちぴちの黒い服を着た訳ありな”そっくりさん”」でさえも受け入れるまさに「差別や格差のない世界」。そんな第三村を生み出したのは、紛れもなくシンジの起こしたニアサーのおかげだったのである。

おかげ、というのもおかしな気もするが、正直この第三村の暮らしは個人的に憧れさえ抱いてしまう。金や地位に興味のない一般庶民である私にとって、カネで物事の序列や生活の質、健康が左右されるこの世の中は住み心地が良くない。第三村の生活は各々が自分の得意なことを活かし、分け与え、些細な幸運を祝福し合う、理想の社会生活であると感じざるを得なかった。

アスカ

劇中で「父親はいない、母親も知らない(中略)誰かに撫でて欲しかった」と語っていたアスカ。さらに惣流時代*には父親は精子バンク、母親は人形を娘として扱った末に自殺、という壮絶な過去がトラウマとなっていた。

*惣流時代、と言っているのは、私の中で「シキナミシリーズ」のオリジナルは惣流だったという考察の元である。ついでに誰も語ってないのでここで考察させていただく。貞本エヴァ(=漫画版)9巻で精神汚染されているときにアスカの過去が明かされるシーンがあるが、母親に「あの女の子どもには負けないでね」と言われている。このセリフから、「あの女」はアスカの母親の仕事上の憎き敵だったのではないだろうか。そして「あの女」はメガネをかけている。実は「あの女」はアスカの母と共に働くマリのオリジナルで、その子どもがマリのクローン(絵柄的に似てないが、単行本発行当時マリのデザインは決まってなかったということにしておこう)で、のちの世界線?時間軸?である新劇場版でのエヴァ8号機パイロット真希波マリイラストリアスだと私は考えている。

そんなアスカにぽっかり空いていた「両親の愛情」「無条件の承認」「自己効力感」の穴を埋め、アスカを「大人」にさせたのは紛れもなく「ケンケン」ことケンスケだ。

「大人」にさせたのはここでは精神的な意味で。身体的な意味では…全国のアスキスト(=アスカファン)に配慮して特に何も言わないでおく。正直、どちらに捉えても間違いではないと思う(逃げ)。

Qの直後であるシンエヴァにおいて、ケンケンがアスカの裸を見慣れていたことなどから、Q以前=ニアサー後の、作中では描かれていないいわゆる「空白の14年間」の間に二人の仲は深まったことが分かる。

「破」:この時点ではケンケンを含む第一中学校の生徒とアスカは大して仲良くはない。

そして最後にニアサーが起こる。

ー空白の14年間ー

第三村が形成される。

アスカがケンケンと再会、仲が深まる。

「Q」:アスカはずっとヴンダーの中。

「シン」:すでにケンケンに心を許したアスカの登場。←イマココ

ニアサーがあったから、アスカは両親から受けられなかった愛情をケンケンから受け、人として得るべき欲求の穴が満たされたことでシンジよりも先に「大人になっちゃった」のだ。

トウジ

また、トウジを変えたのもシンジだ。

序において、シンジが動かす初号機のせいで妹のサクラは怪我をし、トウジはシンジにキレた。その後、シンジのお陰で自分たちは守られていることを痛感し、シンジと和解した。トウジが医者として人々を救う道を選んだのは、妹の入院やシンジの行いがきっかけになったと考えられる。

シンジの作ったご飯を見て「男のすることやない」と言い捨てたトウジがシンエヴァではシンジ達に味噌汁をよそっていたのも、ニアサー後に協力する大切さを痛感したからだろう。トウジはシンジの行動から直接的・間接的な影響を受けて大人になっていったのだ。

レイ

間接的だが、綾波レイ(仮称)(=通称黒波)が初めて主体的に自分のために生きるようになったのは、ニアサー後に出来た第三村のおかげだ。

今までの綾波レイは、どの個体(個体言うな)も「命令ならそうする」「碇くんにポカポカしてほしい」「碇くんがもうエヴァに乗らなくていいようにする」など、受け身または誰かのための行動だった。

それが、汗水垂らして働く楽しさを知り、注目される恥ずかしさを知り、別れの寂しさを知り、最期には「稲刈りをしてみたかった」「つばめをもっと抱っこしたかった」と、自分自身の希望を語っている。

「シンジが起こしたニアサーきっかけで出来た第三村のお陰」を、「シンジのお陰」とするのは少し遠いように見える。しかし、「自分のせいでレイを救えなかった」と語るシンジとは対象的に、救いたかったレイとは違う個体でも、綾波レイという生き物が初めて主体的な幸せを得られたのは、「差別や格差のない」第三村のお陰だ。そしてその第三村は、ニアサーという悲劇がなければ発生しなかったのだ。

本当はシンジは世界を救っていたのではないか

そもそも、サクラとミドリの弾丸からシンジを庇ったミサトの言うとおり、シンジがニアサーを起こさなければ、人類補完計画は完遂され、人々は消え去っていた。

ニアサー自体がゲンドウの目論見通りだったとしても、ニアサーが起きたことで人類は最悪の自体を免れ、シンジに救われていたのではないだろうか。

「救い」の定義は人それぞれにしても、起こってしまった事態をどう受け止めるかはその人次第。
ニアサーという悲劇も人類補完計画もなければ、
アスカは一生愛を知らなかったかもしれない。
トウジとヒカリは結ばれなかったかもしれない。
レイはどの個体も自分の意志を持たなかったかもしれない。
人々は己の利のために醜い争いを続けていたかもしれない。

未曽有の悲劇に飲まれ「シンジのせいで家族を失った」ことを根に持って生きるミドリと、「ニアサーのおかげでトウジと結ばれた」と語るヒカリ、同じ悲劇をどう捉えどう生きるかが対照的に描かれていた気がする。ニーチェ的に言うと、「パースペクティブ」といったところだろうか。

ミドリに「飲尿ピンク」とあだ名をつけた人、あとで職員室来なさい。

新劇場版の大きなテーマは「大人」

あなた自身の願いのために

「破」のクライマックスであるニアサーの直前、ミサトはシンジに

「行きなさいシンジくん!誰かのためじゃない!あなた自身の願いのために!」

と叫んだ。

自身の願いのために行動する。

それはエヴァンゲリオンという作品の中で「大人」の取る行動だった。ゲンドウも、冬月も、加地も、ミサトも、リツコも、大なり小なり、ポジティブだろうがネガティブだろうが、何かしらの想いや願いを持って行動していた。

母親役としてミサトは、最後にシンジが大人になり「窓辺からやがて飛び立つ」ことを願っていたためにこのセリフを発したのだろう。

さらに旧劇場版では、かの有名な「大人のキスよ。帰ったら続きをしましょう。」というセリフでミサトとシンジは別れた。いつまでも後ろ向きで「子ども」のシンジに向けて、次に会うとき=この危機を乗り越えた後には大人になっていてというメッセージだったのだろう。

大人になれなかったゲンドウ

この「大人」になるというのがシンエヴァにおけるポイントになると観劇前に私は予想していた。

そういった視点で見ると、前述のようにシンジは図らずともたくさんの人たちを「大人」にしてきた。

エッチな意味ではない。

そして自身の願いのままに人類補完計画を進めてきたゲンドウはシンジと対峙した際、シンジのことが嫌い又は無関心だったのではなく、向き合うのが怖かったのだという自分の弱さを吐露する。なんと幼稚な…と思うが、この幼稚さこそゲンドウを完全な「大人」にさせなかったのだろう。「自分の願いのために」人類補完計画を進めるという意味では確かに「大人」側なのだが、「自分の意志で行動する」という意味では、そういえばこいつはずっと「ゼーレのシナリオ通り」「裏死海文書がどうたらこうたら」などと言っていた。動機の幼稚さだけでなく主体性という側面で見ても、結局はゲンドウも「大人」ではなかったのだ。

子供しか乗れないとされていたエヴァに乗れたのも、理由はアニメの設定上いろいろあるだろうが、本質的には「愛に飢えた子ども」だからなのではないかと私は考察している。

ちなみに映画サイトの口コミや各種考察動画のコメントなんかを見ていると、「人類補完計画という壮大な企みにしては動機が幼稚すぎる」「シンクロ率無限大とか、量子テレポートとか、8+9+10+11+12号機とか、今までに比べて用語が厨二すぎ」という意見もよく見かける。

そう感じたことは正しい感覚であろう。

シン・エヴァンゲリオンは大人になれなかったマダオ、もといゲンドウの幼稚な計画を「大人」が止める話でもあるのだから。ゲンドウの計画、そしてL結界境界面が深く進めば進むほど、知識だけで武装したゲンドウの、心の幼稚さが表れてしまったのが厨二っぽい用語の正体だと思う。

量子テレポートとシンクロ率∞は私も笑った。

落とし前をつける

そしてもう1つ、「大人」になるためのポイントがあった。

それは、セリフでも何度か出てきた、自分のしてきたことへの「落とし前」だ。
ここでの落とし前とは、「責任を取る」という意味合いが強い。

リツコは自分の不埒な恋心に「落とし前」をつけるためにゲンドウを撃った。
サクラはシンジに「落とし前」をつけさせるためにシンジへ向けて発砲した。
ミサトはシンジを大人にできなかった「落とし前」として、その弾丸からシンジを庇った。
またミサトはカジリョウジ(子)の母親になれなかった「落とし前」として、シンジに対しては最後は保護者としての責任を果たした。
加持はスパイという身の上で長くは生きられないことを分かっていて、自分の人生(父親になる予定だったことも含めて)の「落とし前」として種の保存を託した。
アスカはシンジへの恋心に「落とし前」をつけるためにシンジにかつての好意を告げた。
それはシンジも同様に。

そうして1つ大人になったシンジは、父ゲンドウから逃げ続け、親子として向き合って話をしてこなかった「落とし前」をつけるべく、最後の決戦へ向かった。

アスカの言う通り、「大人」になったからこそシンジは「アスカがシンジを殴った理由」が分かった、つまり「『大事な人をどのようにして殺すか』という究極の選択が出来なかったことは責められるべきことだ」という答えに自力でたどり着けたのだ。

ゲンドウは、人々を自分の望みのために利用したこと、そして息子シンジと向き合って来なかったことに、最後の最後まで責任を持たなかった。「落とし前」をつけられなかったゲンドウの望みは、今までの人生に「落とし前」をつけてきたシンジの手によって破られた。

マリについては深くは描かれなかったが、マリの想い人はユイであることが貞本エヴァ最終巻の「夏色のエデン」で明確になっている。ユイへの想いに落とし前を付けるべく、ユイの子どもであるシンジをユイとゲンドウの元へ送り、「落とし前」を付けさせ、エヴァのある世界からエヴァのない世界へシンジを誘うことが、マリにとってのユイへの想いの清算、つまり「落とし前」だったのであろう。

子を大人に成長させるのは本来、親や周囲の大人の役目である。

アスカにしろレイにしろリツコにしろミサトにしろ加持にしろシンジにしろ、身近な大人が機能不全(または居ない)である描写が多かったのがエヴァンゲリオンという作品の全体を通しての大きな特徴だ。

ちなみに、身近な大人が機能不全であったというのは、ゲンドウもおそらく当てはまる。仮にゲンドウが「人を愛せない人間」という設定ならば、「親の愛を受けたのに、愛を感じられなかった人間なのだろう」と考えられる。しかし、そうではない。つまり人を愛することができる人間であったことは、ユイへの執着から分かる。ということは、本来「愛着形成」が起こるはずの親ないし保護者が幼少期にいなかったから、ユイが「初めて愛した人」となったのだろう。

「大人が子供を大人にする」ことが叶わなかった人生を進みながらやり直し、周囲との関わりの中で「僕はここに居てもいいんだ!」という自己効力感のようなものを得、「大人」になる。

これこそこのストーリーのゴールであったのだ。シン・エヴァンゲリオンのタイトルの最後に付けられrたリピート記号には様々な意味があると思うが、その一つが「大人になる過程のやり直し」を表したものだろう。

…というのが私自身の、エヴァンゲリオンという作品の全体的な解釈である。

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